ホンダ時代(2002~2003)
2002年
2002年にMotoGPクラスが開始しました。
ロッシはワークスのレプソル・ホンダに加入し、新たに投入された4ストロークマシンのRC21Vを駆りレースに参戦しています。
当時は2ストローク500ccと4ストローク990ccとの混走でしたが、4ストロークマシンが全レースに勝利するという年でした。
ロッシは開幕の鈴鹿で優勝すると、シーズン前半9戦のうち8勝するという圧倒的な成績で、結局11勝を挙げて4戦を残しロッシが初代MotoGPチャンピオンとなります。
2003年
この年はセテ・ジベルナウがホンダに移籍し最大のライバルとして立ちはだかります。
何度もロッシを打ち負かしたジベルナウに対して、チェコGPでは0.042秒という僅差で競り勝ちました。
オーストラリアGPではクラッシュによってイエローフラッグ(※1)が提示されている間に追い越しを行ったため、10秒のペナルティを受けますが、2位に15秒差をつける勝利を収めています。
※1 コース上が危険な状態があると判断された場合、グリーンフラッグが振られるまで追い越しは禁止
最終戦のバレンシアGPでは特別仕様のマシンで出場し、ここでも優勝。
ロッシは2003年も9勝を挙げて第14戦のマレーシアでタイトルを確定します。
マシンの力で優勝した?
ロッシがシーズンを圧倒的な成績を収める中、このようなことが噂されます。
「ロッシの実力ではなくマシンが優れていたからだ」と。
ホンダ内でも重要なのはマシンが勝つことであって、ロッシが勝つことではないという意見だったようです。
そのこともあって2003年でロッシはホンダを降りることになります。
移籍先はロッシの出身であるイタリアのメーカーであるドゥカティが噂されました。
イタリアのメディアも地元の英雄であるロッシがくることを期待します。ドゥカティ側もオファーしたようです。
しかし、ロッシはドゥカティを選択しませんでした。他のメーカーと比べて競争力が劣ることを判断しています。
実際、ドゥカティのパフォーマンスはいいとは言えませんでした。
最終的には2年間で1200万ドルという契約をヤマハと結びます。